121  吉川八幡神社

 

 かつて妙見参詣の門前町として賑わった吉川地区。妙見口駅から北へ15分ほどの左山裾に、吉川地区の鎮守として親しまれている八幡さんがある。元禄八年(1695)寺社吟味帳によると平安時代の冶歴年間(1065 1069)今から約940年余前に清和源氏の祖源満仲からみて3代目源頼国の七男頼仲が、吉川在住の折に創建されたものと伝えられている。

当神社は享保二十年(1735)と嘉永五年(1852)の二度にわたり火災にあい、現在の社殿は安政三年に立て直されたものである。昭和四十九年に老朽化した本殿が修理され、同時に拝殿と社務所が新築された。

源頼仲は、全国の源氏に諮って高代寺を再興した。(源満仲が960年に建立後約100年)この頃が高代寺の最盛期でもある。八幡神社は、元は高代寺の支配下にあり、元禄八年の寺社吟味帳には、社務を統括する僧侶“別当”は高代寺であると記されている。しかし明治三年の政府の神仏分離政策により高代寺から独立し、この時に仏像経文などがすべて破棄された。

第二次世界大戦前までは、立派な梵鐘があったが、昭和十八年十二月戦時供出され、今は無い。石の鳥居の左側に釣鐘堂があった。当時儀式の始めや終わりの合図、朝夕の時鐘として用いられていたと伝えられている。

八幡神社は、吉川地区と共に黒川の人々も氏子として祭祀していたが、明治三十五年に吉川小学校および村役場の新築用材問題がおこり、黒川村はこの神社から離れていった。

神社の行事は、近年大円の走落神社により行われていたが、現在は野間神社の宮司により執り行われている。

 

祭神は応神天皇。神仏混淆のときは八幡大菩薩ともいう。八幡宮は稲荷宮に次いで神社数の多い神宮である。総本宮は大分県にある宇佐神宮である。五穀豊穣、無病息災、氏族繁栄を祈る農業の神様であるが、平安から鎌倉時代にかけて武士の守護神・軍神として深く信仰されるようになった。神仏習合からみた本地仏は阿弥陀如来である。

※平成二十年夏、社殿修復時に発見された棟札の上部に阿弥陀如来を表す梵字キリークが書かれておりこのことを裏付けている。

平安中期になると、仏が神の本地(本体)、神は仏の垂迹(衆生を救うための仮の現れ)だとする本地垂迹説が出現する。(宇佐神宮神話)

 

本殿の向って左側に、天照皇太神社、稲荷社、弁財天社、多賀社の小宮が祀られている。

 

神社の敷地は9,510u(2,881坪)で、境内は豊能町保護樹林第一号のツブラジイ(椎)が生い茂り、樹齢約400年と推定されている。このツブラジイは暖帯性で、この森が自生北限とされている。