122 高代寺 

 

金堂

境内

高代寺は810年「空海」が高野山を開く9年前に立ち寄り、閼伽井神泉を発見し、自作の「薬師如来像」を祀り、草庵を建てたと伝承されている。

960年「源 満仲」が父「経基(六孫王)」の3回忌法要の時大伽藍を建立し、菩提の寺として「高代寺」とした。「源満仲」は三ツ矢の占いにより、10年後の970年に多田院を開き、家臣団と共に移り住んだ武将

高代寺は多田源氏の信仰を受けていたが、後に一時寂れ、源頼仲が治暦4年(1068年)に復興をはたした時が最盛期と言われている。

金堂(間口十二間約22m、奥行十八間約32m)・宝塔・大講堂・文殊堂・普賢堂・弁才天堂・妙見堂など37棟のお堂、12の僧坊、数千町歩(2200石)の寺領を有し、50を超える末寺があった。頼仲以後また寂れて行き、秀吉の頃には僧坊3舎になったと言われる。

江戸時代に中興の祖と言われる24世法印秀栄が、寛永12年(1635年)〜寛文4年(1664年)まで寺務を司り高代寺の再建に努める。参道の町石、六地蔵、万霊塔などを残しており、境内墓地の一段と大きい五輪塔が秀栄の墓である。

現在の本堂は、昭和25年のジェーン台風で崩壊したものを、境内の樹木を伐採して昭和27年に再建したものである。