46 高山右近生誕地の碑

 

戦国時代(16世紀後半)の武将でキリシタン大名として名高い。ここ高山は右近の生誕の地である

幼名は彦五郎、右近は官名で通称である。21歳で高槻城主となる。余野の城主 黒田氏(飛騨守の遠縁の人、家族・家臣50数名が洗礼を受ける)の娘ユスターと結婚、右近22歳、ユスター14歳の時である。

出生地は諸説(近江・甲賀、大和・沢、摂津・高槻)あるが、摂津・高山生まれが通説になっている。

 高槻でも資料には「1552年ごろ北摂の高山荘に生まれる」と高山説を採っている。

江戸時代初期の1614年、徳川家康のキリシタン禁教令によって国外追放(フィリピンのマニラ)され、マニラで亡くなった。現在でも高山には、隠れキリシタンの墓と伝えられている「高山マリアの墓」や「高山高札場跡の地蔵」などのキリシタン関連遺物が残っている。

高山飛騨守(右近の父)

文武に秀で教養豊かな武将であった。松永久秀の配下として大和・沢城主(宇陀)を務める。

 飛騨守は元は熱心な仏教信者であったが、沢城主時代の1563年、キリスト教の教えを論破しようと激しい宗教論争を交わした結果、キリスト教の真理を悟り、家族・家臣も含めてロレンソ修道士より洗礼を受ける。洗礼名はダリオ。母はマリアといった。

和田惟政(これまさ)の配下として芥川城(高槻市の山城)、高槻城主を務め、惟政の重臣となる。

荒木村重の配下として高槻城主となった飛騨の守は、ロレンソ修道士をともない郷里摂津高山に帰ってくる。高山の地には右近の祖母が、小さな寺ジアンで仏教に深く帰依していたが改宗し、洗礼をうけジョアンと呼ばれた。この年の夏には、ガスパル・ヴィレラも高山を訪れ、右近の祖母の小堂ジアンに聖ジアン(聖ジュリアンの略)の名を与え教会としミサ聖祭をおこなっている。聖堂跡は「高山の自庵」と称されてきた。現西方寺と推定される。

高山右近の活躍と評価

(1)武将

   山崎の合戦、小牧・長久手の戦い、賤ヶ岳の戦い、根来・四国・九州征伐に参戦した。秀吉に追放された後も前田家の客将として小田原の役等で活躍し、徳川家康をして「高山右近の兵千人は他の武将の一万人の兵より強い」と言わしめた。

(2)キリシタン大名

高槻四万石、明石六万石のキリシタン大名としてキリスト教の布教・保護に成果をあげた。領民に改宗を強制し、寺院を破壊したともいわれている。11歳の時洗礼を受け、名はジュスト(正義の人の意味)。海外では「ジュスト・ウコンドノ」という。秀吉からキリスト教を棄てるか、大名を棄てるか迫られ、多くの大名が棄教する中、右近だけは改宗せずマニラに追放された。2015年で没後400年を迎える。

(3)築城家

   高槻城の修築、舟上(ふなげ)城(明石)の築城、金沢城の修築、高岡城の築城を手掛け、名築城家といわれている。

(4)茶人

   「利休七哲」(蒲生氏郷、古田織部等)の一人として名高い。加賀時代、茶人として「南坊」(みなみのぼう)(南蛮の坊主)「等伯」の茶号を用いた。

(5)国際人

   キリスト教の熱烈な信仰者、保護者、殉教者として海外で高い評価があり、ローマ教皇から書簡が寄せられた。ポルトガル語に堪能で、ポルトガル語で書いた書簡が発見されている。追放先のマニラでは、総督はじめ市民の大歓迎を受けている。